4歳で診断、父は絶望で泣いた
アツシは1996年生まれ。今年29歳になります。
生まれたとき、産声がなかったのが少し気になりました。でも、泣くこと以外は“普通の赤ちゃん”でした。
でもね、なんとなく「ん?」って感じる場面が、少しずつ、増えていったんです。
生後10か月のとき、私の友人たちが家に遊びに来ました。
アツシは、誰とも目を合わせなかった。ひとりで黙々と遊んでて、その姿に、胸の奥がゾワッとしました。
「この子、なにかちょっと違うかもしれない…」
そんな不安が、確信に変わっていくのに、そう時間はかかりませんでした。
言葉が遅い。笑わない。落ち着きがない。ずっとひとり遊び。
4歳のとき、思い切って児童精神科に行ったら、臨床心理士による30分の聞き取りだけで医師から「広汎性発達障害、いわゆる自閉症です」と伝えられました。
その日からの一週間、絶望感で泣きました。奥さんは受け入れなかったけど。
でも、止まってなんかいられない。
集団生活に慣れてもらおうと幼稚園に入れたけど、運動会やお遊戯会ではやっぱり浮いてしまう。
でも、いい先生と友達に恵まれて、なんとか卒園。
「よくがんばったなあ」と、心から思いました。
小学校に上がると、もっとしんどくなりました。
じっとしてられない。指示が通らない。言葉がうまく伝わらない。
学校からの呼び出しは日常茶飯事。週に一度は私が学校に行くようになりました。
その“付き添い”は、中高、大学まで、長く続いていきます。
中学・高校は、全寮制の学校に進学させました。けれど、そこでの生活は、「穏やか」とは程遠いものでした。無期停学、脱走、コース変更――。何かが落ち着いたかと思えば、次の波がすぐに押し寄せてくる。
PTAの役員を引き受け、学園祭の準備では力仕事を買って出て、野球部の応援にも足を運びました。さらには、校長先生が一人で歩く可能性のある場所にわざと立ち媚びを売る。
きれいごとでは片付けられない。背に腹は代えられない。そんな日々の連続。
保険として通信制高校という選択肢も用意していましたが、正直なところ、首の皮一枚で繋がっているという言葉がぴったりの日々でした。
一般入試で入った大学、卒業できなかった悔い
それでも、そんな中で息子は「大学に行きたい」と言い続けるのです。
得意だった数学と暗記が利く生物に絞って一般入試に挑戦。発達障害専門のサポートセンターがある大学に、なんとか合格することができました。
そのときの喜びは、今でも胸に焼きついています。「おかげさまで」と焼き印を入れた煎餅を特注し、お世話になった方々に配りました。あの時は、とにかく誰かに伝えたかったんです。媚びを売る生活の復讐かも?
しかし、大学での学びは、「正解が一つではない」世界でした。
数学の講義には問題なくついていけましたが、文章を読み、自ら考えて答えを導くような科目には、なかなか馴染めませんでした。課題が積み重なり、次第に進級も難しくなっていきます。
そんなとき、友人の誘いでアルバイトを始めました。大学2年の春のことです。
最初は月に1回程度。それが徐々に増え、週に1〜2回のペースで働くようになり、気がつけば3年近く続けていたようです。
その姿を見て、私も「もっとやってみたら?」と喜んで勧めました。
応援のつもりだったのに、知らず知らず、プレッシャーになっていたんですね。
それに気づいたのは、だいぶ後。アツシに「頑張りすぎて生活が崩れた」と言われ言葉を失いました。学業が疎かになっていくことが、アツシにはつらかったそうです。
本人より親がいろいろなものを諦めきれずズルズルと月日が過ぎ、結局、6年満期で中退することになりました。
その後は、病院、訓練施設、作業所を転々として、今はグループホームで暮らしています。B型就労に週1日通いながら、なんと今は通信制短大で勉強しています。
アツシは「大学を中退したことが心残りだった」とぽつりと言いました。
いまは通信のスタイルが合っているようで、あと6単位で卒業だそうです。
未来のことは、正直よくわかりません。
でも、どんなときも「アツシのペースでいい」と思ってます。
“正解が一つじゃない”世界を、私も一緒に歩きながら、これからも自己流で伴走していこうと思います。
